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東京高等裁判所 平成7年(う)1612号 判決 1996年12月02日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一二年に処する。

原審における未決勾留日数中五八〇日を右刑に算入する。

理由

第一  控訴の趣意

一  検察官の控訴の趣意は、水戸地方検察庁検察官佐々木博章作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用するが、その論旨は、要するに、Aに対する殺人、Bに対する殺人未遂、右両名の現住する本件建物についての現住建造物等放火の本件公訴事実について、原判決は、外形的にはこれとほぼ同旨の事実を認定しながら、殺人及び放火の故意が認められないとして、傷害致死、傷害、重過失失火罪の限度で被告人を有罪としているが、原判決には殺人及び放火の未必的故意を認めなかった点において事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかである、仮に、原判決のとおりの罪で処断されるとしても、被告人を懲役五年に処した原判決の量刑は軽すぎて不当である、というのである。

二  次に、弁護人の控訴の趣意は、弁護人茂手木雄一作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用するが、その論旨は、要するに、<1> 原判決は、Bに対する傷害罪認定の前提となる暴行について、全身にシンナーを浴びた同人の身体のごく近くにライターを突きつけて点火した被告人の行為が暴行に当たるとしているがそれは疑問である、ライターを持った手を突きつける行為を暴行だといっても、それによって傷害が発生したわけではないし、点火行為自体は暴行といえるほどの有形力行使とはいえない、もし、全身にシンナーを浴びたBに対しライターを点火した点を全体的に捉えて暴行とする趣旨であれば、被告人には暴行の故意がない、<2> 原判決は、Aに対する傷害致死罪認定の前提となる暴行について、Bの身体の近くでライターに点火した行為がAに対する関係でも暴行に当たるとしているが、被告人がライターで点火したときには、Aがどこにいたのか具体的に特定できなかったのであり、また、Bの身体の近くでライターを点火した行為は、Aとの関係では、その身体の安全に対し具体的に危険を生じさせる程度のものではないから、暴行ということはできない、原判決にはこれらの点において事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

第二  控訴趣意に対する判断

そこでまず、検察官の控訴趣意中、事実誤認の主張について先に判断する。原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討すると、本件の争点は、被告人に本件殺人及び放火の未必的故意が認められるかどうかにあるところ、原判決は、これらの故意を推認させる事情として、被告人が本件建物の床上や就寝中のB及びAの身体に合計約六リットルのラッカー系シンナーを散布したこと、ラッカー系シンナーはトシン系のそれに比べて揮発性が強く、強い刺激臭があって、極めて強い引火性があり、近くで火気を使用するだけでも引火する危険があり、火がつくとガソリンのように激しく燃える性質を有すること、被告人はシンナーを撒き始めた時点で、臭いによりこれがラッカー系のものであることに気づいていたとみられること、被告人は塗装工という職業柄、日常的にシンナーを使用しており、ラッカー系シンナーの右のような危険性を熟知していたこと、被告人が全身にシンナーを浴びていたBに対し、同人の顎の下辺り、換言すれば胸の前約五センチの近い距離にライターを近づけて点火したことなどの諸事実があることを認定しながら、他方において、本件実行行為の態様は被告人自身にも危険が及ぶことを予測させるもので、いわば自殺行為ともいうべきものであること、被告人には本件殺人や放火の故意を抱くに至るような事情が窺われないことなど、前記故意の認定を妨げる事情も認められるので、双方を考え合わせると、ライターを突きつけて点火はしたが、その火がシンナーに引火するとは思わなかった旨の被告人の原審公判廷供述は信用でき、逆に前記故意を認める内容の被告人の捜査段階の供述調書は信用できないとして、結局、被告人に本件殺人及び放火の未必的な故意があったと認定するにはまだ合理的な疑いが残るので、傷害致死、傷害、重過失失火罪の限度で有罪と判断したことが明らかである。しかし、関係証拠を総合すれば、原判決の右認定・判断のうち、右の故意を推認させる事実がある旨の認定部分は正当として是認できるが、後段の判断は到底是認することができない。被告人には本件殺人及び放火の未必的故意があったと認定判断するに十分であり、これを否定した原判決は、この点で破棄を免れない。以下、その理由を説明する。

一  まず、被告人の本件故意の有無を検討する前提として、本件犯行に至る経緯及び犯行状況について検討するに、関係証拠によると、それはおおよそ次のとおりであったことが明らかである。

1  被告人は、沖縄県で生まれ、平成四年三月から沖縄出身のCが経営する塗装会社で塗装工として働くようになり、本件被害者のAとは職場のかつての同僚、Bとは現に職場の同僚という関係にあり、右両名とも沖縄出身者であった。

2  被告人は、平成五年一〇月一八日夜、出張で神栖町に来ていた知り合いのDとともに居酒屋、スナック、自宅で飲酒した後、翌一九日午前零時すぎころ、Dを宿泊先の甲野旅館へ送るため、生後九か月の長男を連れ、自動車を運転して自宅を出たが、途中でさらに飲酒しようということになり、スナック「乙山」に入った。同店内では、丙川塗装の後輩で沖縄出身のEら三名が飲酒しており、被告人も同席したが、Eの顔が腫れていたので事情を聞いたところ、同人らや店のママから、「AとBが連れ立って店に来ていたとき、Bと別の沖縄出身の客とが喧嘩となり、Aがその客を殴ったので、Eら三人で止めに入ったところ、逆にEがAから顔面を殴られた。Bは喧嘩の原因を自分で作っておきながら、Aを止めもせず、知らないふりをして店の後ろからこそこそと帰ってしまった。AもBもひどい。」などと聞かされ、被告人は、AやBの行動にいたく憤慨して、「お灸をすえる。」とか「火をつけてやれ。」などと繰り返し言い、また、Eらに対しても、「何で殴り返さないんだ。俺なら殴り返したのに。」などと言った。三人の諦めたような様子を見た被告人は、三人ともAらより年下のため、不満があっても面と向かっては言えないのだろうと思うとともに、沖縄出身者は本土では近くに身寄りも少なく、互いに助け合って生活していくべきなのに、助け合うどころか仲裁に入った後輩を殴るなどしたAらに憤りの念を強め、自分がEに代わって翌朝仕事でAらと顔を合わせたときに文句を言って謝らせてやろうと考え、Eらには「俺が明日話をしてやる。」と言った。その後暫く同店で飲酒した被告人は、Dを宿泊先に送り届けて自宅に戻る途中、先ほどEらから聞いた話を思い出し、明朝話をしたのでは、酒を飲んでいたために覚えていないなどと言い訳をされるかも知れないと思い直し、これから直ぐにAらの家に行って話をつけようと考え、一旦自宅に戻って長男を妻に預けた後、自動車で原判示のA方に赴いた。

3  同日午前一時半すぎころ、被告人はA方に到着し、車を降りて玄関の方に回っていくと、玄関近くの物置の側に塗装用シンナーの一斗缶が置かれているのが目に入り、持ち上げてみて、半分以上入っていることが分かったので、このシンナーを家の中に撒いたりAやBの身体にかけたりして、火をつけるような様子をみせて脅かせば、二人とも驚いてEを殴ったことなどについて正直に話をし、素直に謝るのではないかと思いついた。

そこで被告人は、一斗缶の蓋を外してこれを左脇に抱え、本件建物六畳間の無施錠のガラス戸を開けて、土足のまま、シンナーを撒きながら六畳間に入ったが、このときまでに撒いたシンナーの強烈な臭いでそれがラッカー系のものと分かった。被告人は無言のまま、六畳間で寝ていたBに対し、缶を左右に振るようにして身体の端から端までおよそ一往復半シンナーをかけ、さらに、シンナーを撒き続けながら、隣の四畳半の間に入り、そこで寝ていたAの身体にも同様にして端から端までおよそ一往復半シンナーをかけた。こうしておいて、被告人は、寝ていたAの太股辺りを思い切り蹴り上げ、起き上がった同人に対し、「何で止めに入った後輩をひっぱたくんだ。」などと怒鳴りつけたところ、同人から何か言われ、これを素直に謝りもせずに反抗的な態度を取っていると感じたため、同人の襟首を掴んでその胸辺りにシンナーをかけ、その缶を投げ捨て、さらに、所携の使い捨てライターを取り出して、これを同人に近づけて「火をつけるぞ。」などと脅かしたところ、Aは四畳半の間を出てトイレの方に行ったが、被告人はAがどこに行ったのかまではよく確認しないまま、その方向は台所となっていたことから、自分に対抗するためにAが包丁などを取りに行ったのではないかと考えた(原判決は、被告人がAに対してライターを示して脅かしたことを認定していない。しかし、司法警察員作成の実況見分調書(原審甲一三)によると、四畳半の間の残焼物の中から、被告人が当夜運転してきた自動車や自宅の鍵などが発見されていることが明らかであるところ、ポケットに入れていたライターを被告人が取り出したときにこれらの鍵が一緒にポケットから出てしまって四畳半の間に遺留されたと考えることにより、右事実を自然に説明することができるのであり、また、原審証人Bが、被告人がAに対してライターを近づけて「火をつけるぞ。」と言った旨明確に供述し、右供述が右の客観的事実とも符合していて信用性の高いものであることからすれば、被告人がAに対してライターを示して脅かした事実は証拠上明らかになっているといえる。)。

さらに、六畳間で立ち上がって無言のまま自分の方を見ていたBを見て、Bも反抗的な態度を取っていると感じた被告人は、同人に近づいてその胸倉を左手で掴んで「お前やるのか。」などと怒鳴りつけたところ、Bが自分を睨んで体を押し返してきたように感じたため、ライターを同人に示して脅かしたが、なおも同人が体を押し返してきたように感じた。そこで被告人は、同日午前二時ころ、右手に持ったライターを同人の顎の下付近、胸部の前方約五センチの近くに突きつけて点火した。

4  点火した瞬間、Bの身体が炎に包まれ、辺り一面も火の海となり、四畳半の間にいたAも全身火だるまの状態になった。

被告人は、一瞬呆然となったが、Bに抱きつかれたまま戸外に逃れたところでBを振りほどき、消火作業をしたりAらを救助したり一切することなく、自動車の鍵が見つからなかったため自動車をその場に放置して逃走した。

5  この結果、Aは全身の六〇パーセント弱と気道全般に第二度ないし第三度の火傷を負って七日後の同月二六日に死亡し、Bも全身の約四五パーセントに第二度ないし第三度の火傷を負って、入院加療約三か月間の治療を余儀なくされた上、頚部両手拘縮で運動傷害が残ることとなった。また、前記建物一棟も全焼した。

6  ところで、シンナーには、前述のとおり、一般にラッカー系とトシン系の二種類があるが、前者は後者に比べて格段に揮発性が強く、強い刺激臭がある。そして、ラッカー系シンナーは極めて強い引火性があって、近くで火気を使用するだけで引火する危険があり、火がつくとガソリンのように激しく燃えあがる。被告人は、塗装工という職業柄、日常的にシンナーを使用しており、ラッカー系シンナーの右のような危険性を熟知していた。被告人が、本件当日、本件建物内で床上やA及びBの身体に撒いたこのシンナーの総量は約六リットルに達していた。

二  右に認定した事実によると、被告人は、このように揮発性や引火性が強く、危険なラッカー系シンナーを、約六リットルも本件建物内の四畳半と六畳間の床上に撒いた上に、AやBの身体にも約一往復半ずつ撒いたというのであるから、このような状況において、Bの身体に約五センチという接近した距離でライターを点火すれば、Bの身体に撒かれたシンナーに引火し、その火が瞬く間に本件建物内に広がり、中にいたAの身体にも火が及び、その結果、建物が炎上するのはもとより、右両名が焼死する危険性があったことは誰の目にも明らかであったといえる。そのことは、とくに被告人のように塗装の仕事に従事する者にとってはいわば常識に属する事柄であって、被告人が原審公判廷のみならず当審公判廷においても、冷静に考えれば、本件の状況の下で、Bの身体から二〇センチ離れた位置でさえもライターで点火すれば引火炎上する危険があったと供述していることを引き合いに出すまでもなく明らかである。そうだとすると、塗装工をしていてラッカー系シンナーの右のような危険な性質を熟知し、シンナーを撒き始めたときにこれがラッカー系のものであることを認識していた被告人が、自ら約六リットルもの多量のラッカー系シンナーを室内やA及びBの身体に散布した上でライターをBの身体に近づけ点火した場合に、その火がBの身体にかかっていたシンナーに瞬時のうちに引火炎上する危険が高いことを認識していなかったなどとは、到底考えられない。このことは事件当夜の被告人の行動に照らしてみても明らかである。すなわち、被告人は、スナック「乙山」で聞いたAやBの理不尽な行動に憤慨して、同人らに謝罪させようとA方に赴いたところ、たまたまシンナー缶を目にしたことから、これを室内やAらの身体にかけて火をつける様子を示して脅かせば、同人らも素直に謝罪するであろうと考えて、シンナーを撒いたり、ライターを取り出して「火をつけるぞ。」などと言って脅かしたというのであるから、このような被告人の行動は、それ自体、点火すれば引火炎上するという危険を被告人がよく認識していたからこそ、これを意識的に利用していたことを物語っているというほかないからである。そして被告人が原審公判廷で、「一番最後の段階ではライターに点火しているが、それまでそういう行動をしてなかったというのは、ライターに点火したら危険だという気持があったからではないか。」との質問に対して、「そうだと思うんですけど。」と肯定的な供述をしているのもそれ以外に考えられないためと理解される。そうだとすれば、その直後にライターを点火したとされる本件犯行時に、引火炎上の危険性を認識していたと考えるのは言うまでもないところであって、逆にこの時点でなおその危険性を認識していなかったなどというのは余りにも不自然すぎて納得できないといわざるをえない。

原判決は、本件犯行の状況下で被告人がライターで点火するのはいわば自殺行為に等しいから、右の危険性を被告人が認識しておればそのような行動をとる筈はないとして、このことから被告人が右の危険性を認識していたとするのは疑問だと判示している。しかし、ライターで点火することが自殺行為に等しいなどといえるのは、少なくとも被告人も多量のシンナーを浴びており、しかも被告人自身がそのことを認識している場合のことであろう。ところが、関係証拠によれば、被告人が当時着ていたトレーナーは、上衣の左袖部分と下衣の左足の左端部分が焼燬しているだけであり、また、両手と顔の一部に火傷を負っているにすぎないことが認められるのである。そして、被告人のシンナーの撒き方からすると、シンナーが被告人の顔面に跳ね返って付着する可能性が高かったとは考え難いので、顔面に生じた火傷は、おそらくBに抱きつかれた際に生じたものではないかと考えられるのであり、このように被告人の着衣や身体に自殺行為と評価されるほど多量のシンナーがかかっていなかったことは明らかであり、そうであればこそ、現実にも、被告人は自力で簡単に自分についた火を消すことができて、全身が炎で包まれるという状態も発生していなかったとみられるのである。被告人も、原審公判廷で、当時自分にシンナーがかかっていると認識してはいなかったと供述している。シンナーを全身に浴びている相手に対する引火の危険性の認識と、シンナーがかかっていないと思っている自分に火が及ぶ危険性の認識を同一にして論じている原判決の論法には左袒できない。

また、原判決は、本件当夜、被告人が通常よりも過度に飲酒して酩酊し、判断力が低下していたことが、右の危険性を認識していなかった一因であるとしているので、この点について検討しておくと、被告人が当夜飲酒した量がどの程度であったかは証拠上必ずしも明確でないものの、当日かなりの量の飲酒をし、そのために判断力が通常より若干低下した状態にあったであろうことは、被告人が深夜、土足で居宅内に上がり込み、多量のシンナーを撒くなどという、些か常軌を逸した行動を取っていることからも窺うことができる。しかし、他方、被告人の事件当夜の行動は、前述したとおり理不尽な行動を取ったAらを戒めるという目的に照らして考えると、これに沿った合理的判断の枠内にあるとみられ、また、被告人は本件犯行時の状況をかなり細部に至るまで具体的に記憶して供述し、犯行直前にも自動車の運転を支障なくこなしており、被告人自身としても当時それほど深く酔っていなかったと供述している状態にあったのであるから、これらの事情を総合すると、右の危険性を認識できないほど深く飲酒酩酊していたなどとは到底いえず、原判決の指摘はあたらないというべきである。

以上のほか、被告人は、捜査段階においては、一貫して、本件の状況下で、ライターに点火すればBの身体にかかっていたシンナーに引火炎上する危険があったことを認識していた旨供述しており、その供述内容は当時の客観的な状況にも符合するもので信用してよいと認められるのに対し、これを否定する被告人の原審及び当審各公判廷供述は余りにも不自然すぎ、容易に信用し難い状況にある。

以上述べたところからすると、被告人は、Bの身体から約五センチ離れた付近にライターを近づけて点火する際、その火がBの身体等にかかっていたシンナーに瞬時のうちに引火して炎上するかも知れないことを認識していたものと認めざるを得ない。

ところで、被告人は自分の性格がかなり短気であることを自認しており、このことは妻F子の当審公判廷の供述でも裏付けられている。また、被告人はBやAとは一緒に麻雀をするなどのつきあいをしながらも、その反面、両名のことについて、Bは、酒を飲んだ翌日には仕事をさぼり、仕事に出てきてもしっかりした仕事をしないで、自分勝手にやってしまうところがあり、酒癖も悪いなどと、またAは、酒を飲んだ翌日には仕事をさぼることから先輩に注意されて仕事に来なくなったこともある、後輩に意地悪するところがあり、若い者がよく叩かれるということを聞いていたなどとそれぞれ評しているところからも窺えるように、右両名に対して普段から余り良い感情を抱いていなかったことが明らかである。そして、事件当夜、スナック「乙山」でAやBの理不尽な行動を聞いてすぐ、深夜であるにもかかわらずA方に押しかけ、相手方に応対方法を考えるいとまも与えずに上述の行動に出た点には感情的に極めて激していた様子が顕著にあらわれている。そして、予想に反して、両名とも驚いた様子をみせず、かえって反抗的な態度に出たように感じられたことがこれに拍車をかけ、飲酒の影響も手伝って引くに引けないという気持から一気に憤激の情が爆発し、ライターに点火した経過であったのである。こうしてみると、短気の被告人が、憤激の余り、引火炎上の危険を敢えて無視する心理的状態に陥ったというのもごく自然に理解できる心理的な展開であるということができる。そして、このように、シンナーを相手の身体に振り撒き、そのすぐ近くでライターに点火するというような、これによって瞬時に炎上する危険性が極めて高く、そのことが誰の目にも一見して明らかな危険な行為に敢えて出る場合には、殺人の未必的故意を肯定すべきものと判断される。

これに対して被告人は、原審及び当審各公判廷で、点火したのはBを脅かすためであったなどと供述する。しかし、前述したとおり、点火すれば引火炎上する危険があったことを被告人が認識していたことは疑いようがないから、点火行為を単なる脅かしにすぎなかったなどと評価することは到底できず、被告人の右供述は信用できない。また、このことは、点火した後の被告人の行動、すなわち、被告人が供述するように、単なる脅かしのためにライターに点火したとするならば、予期に反して大事を生じさせてしまった被告人としては、何にもましてAらの救助措置や消火作業に従事するのが自然であるのに、そのような措置を全く講じようとしないで、その場から直ちに逃走している事実によっても裏付けられているといえる。

原判決は、「ライターを突きつけて点火したが、シンナーに引火するとは思わなかった。」という被告人の右公判供述は一見して極めて突飛で、通常あり得ないようにみえる内容であるが、虚偽の弁解をするのならばもっと有利な虚偽を述べそうなものなのに、このように突飛・不自然な供述をしているということは、これが事実である蓋然性が高いからではないかと思料されるとして、被告人の未必的故意を否定している。しかし、原判決の右判断は、帰するところ、引火して当然と考えられる状況を眼前にしてなお、そう思わなかったという被告人の不合理な否認供述を、不合理な供述であるが故に真実ではないかというに等しく、そのままでは到底批判に耐え得るものではない。

三  以上に検討してきたことによれば、本件犯行時、被告人にはBに対する未必的な殺意があったと認めるべきものと考えられる。そして、同時に、室内にも多量のシンナーを散布していたのであるから、Bの身体に引火した火が本件建物に及ぶことについても未必的に認識していたとみるのが無理のない認定といわなければならない。そして、Aも多量のシンナーを浴びせられて、同じ室内にいることを認識していたのであるから、室内が炎上すれば、その火がAの身体にも及ぶことは当然認識していたとみるほかなく、したがって、Aに対する未必的殺意も否定し切れない。

以上によれば、事実誤認を主張する検察官の論旨は理由があり、また、弁護人の事実誤認をいう論旨は、その前提を欠き、理由がないことに帰する(なお、原判決は、現住建造物等放火の訴因について、訴因変更等の手続をとることなく重過失失火の事実を認定している。訴因変更の要否など訴訟手続上の問題があるが、その点は直接控訴趣意とされておらず、かつ、本件は本来の争点とされている事実誤認により破棄を免れない場合なので、これ以上詳しくは立ち入らない。)。

四  よって、検察官の量刑不当の控訴趣意に対する判断を省略して、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄した上、同法四〇〇条ただし書により当裁判所においてさらに次のとおり判決する。

第三  自判

(罪となるべき事実)

被告人は、平成五年一〇月一九日午前一時半ころ、上述したいきさつを経て、Aらの居住する茨城県鹿島郡《番地略》丁原荘八号(以下「本件建物」という。)に自動車で赴き、玄関近くの物置の側に置かれていた塗装用シンナーの一斗缶を目にするや、その中に残っているシンナーを家の中に撒いたりA(当時四五歳)やB(当時四二歳)の身体にかけたりして、火をつけるような素振りをみせて脅かせば、二人とも驚いてEを殴ったことなどについて正直に話をするだろうし、素直に謝るのではないかとの考えから、一斗缶の蓋を外してこれを左脇に抱え、土足のまま、シンナーを撒きながら六畳間に入り、六畳間で寝ていたBの身体に、缶を左右に振るようにして端から端までおおむね一往復半シンナーをかけ、さらに、室内にシンナーを撒き続けながら、隣の四畳半の間に入り、そこで寝ていたAの身体にも同様にして端から端までおおむね一往復半シンナーをかけた上、寝ていたAの太股辺りを思い切り蹴り上げた。そして、起き上がった同人に対し、「何で止めに入った後輩をひっぱたくんだ。」などと怒鳴りつけたところ、同人から何か言われ、これを反抗的な態度と感じたため、同人の襟首を掴んでその胸辺りにシンナーをかけ、次いで所携の使い捨てライターを取り出して、これを同人に向かって近づけ、「火をつけるぞ。」などと脅かしたが、Aが四畳半の間を出てトイレの方に行ったのを見て包丁でも取りに行ったのではないかと感じ、さらに、六畳間に立って無言のまま自分の方を見ていたBの態度も反抗的と感じられ、同人の胸倉を左手で掴み、「お前やるのか。」などと怒鳴りつけたものの、同人が自分を睨んで体を押し返してきたように感じた。被告人は、シンナーを撒いて脅かせば、AやBも驚いて素直に謝罪するものと考えていたのに、予想に反して両名とも驚かず、謝りもしなかったことから引くに引けない気持になるとともに、両名ともにかえって反抗的な態度を取っていると感じ、飲酒の勢いも手伝って、憤激の余り、ここでライターを点火すれば、その火がシンナーに引火してBやAが火だるまとなり、また家にも火が燃え移るかも知れないが、この際家が燃えようが、二人が焼け死のうがどうなっても構わないという気持で、同日午前二時ころ、右手に持ったライターをBの顎の下付近、胸部の前方約五センチのところに突きつけてライターを点火して火を放ち、これにより同人の身体に散布されていたシンナーに瞬時に引火させ、さらに同部屋や隣の四畳半の間の床面に散布されていたシンナー、ひいては右四畳半の間にいたAの身体にも引火させ、よって、右Aに全身火傷の傷害を負わせ、同月二六日午前二時四三分ころ、千葉県旭市イの一三二六番地所在の総合病院国保旭中央病院において、同人を右傷害により火傷死させるとともに、右Bには、入院加療約三か月間を要する全身火傷の傷害を負わせたにとどまり、同人を殺害するに至らなかったが、右A及びBが現に住居に使用している本件建物(木造平家建建物、床面積三四・七一平方メートル)一棟を全焼させてこれを焼燬したものである。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示所為のうち、殺人の点は平成七年法律第九一号による改正前の刑法一九九条に、殺人未遂の点は同法二〇三条、一九九条に、現住建造物等放火の点は同法一〇八条にそれぞれ該当するが、右は一個の行為で三個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重い殺人罪の刑で処断することとし、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で、被告人を懲役一二年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中五八〇日を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、深夜、憤激の余り、被害者方に土足で上がり込み、室内や就寝中のA及びBの身体に引火性の極めて強いラッカー系シンナーを大量に撒いた上、未必的な殺意及び放火の故意をもって、Bの身体近くでライターに点火して火を放ち、その結果、Aを殺害し、Bに重篤な後遺症を残す重傷を負わせた上、本件建物を全焼させたという事案である。

その動機は、AやBが職場の後輩に理不尽な行動をとったことから、シンナーを撒いて脅かした上、両名に謝罪させようとしたところ、両名が予想に反して反抗的な態度を取ったと感じたために、憤激したというもので、後輩のためにAらに謝罪させようとした気持は理解できなくはないにしても、それにはそれに適した方法がある筈であるのに、深夜、土足で他人の家に上がり込んだ上、その言い分を全く聞こうともせずに、いきなり就寝中の両名や室内にシンナーを撒いたのであるから、就寝中にいきなりシンナーをかけられた被害者らが被告人に反抗的と感じられるような態度をとったとしてもそれは当然のことであるから、そうした動機にはほとんど酌量の余地がなく、また、被害者らにはこのような酷い仕打ちを受けるべきいわれなど全く存しない。犯行態様は引火性の極めて強いラッカー系シンナーを室内のみならず就寝中の被害者両名に多量にかけた上、身体の至近距離で火を放って両名を火だるまにさせたというのであって、極めて残酷な犯行であり、また、Bは直ちに本件建物から飛び出し、偶然近くに水を張って置かれていたベビーバスを見つけてこれに飛び込んだためにようやく一命を取り留めたものであり、また、本件建物は近くに同様の借家があって延焼の危険性があったのを、近くの住民が懸命になって延焼を防ぐ措置を講じたために類焼を免れたにすぎないのであって、極めて危険この上ない犯行で悪質である。この結果、Aは全身の六〇パーセント弱と気道全般に第二度ないし第三度の火傷を負い、苦しみながら七日後に死亡したもので、深夜自宅で就寝中に突然本件凶行にみまわれ、人生半ばにして死んでいった同人の無念と憤り、さらに、その家族の者の悲嘆は筆舌に尽くし難いものがある。また、Bも命こそ助かったものの、全身の約四五パーセントに第二度ないし第三度という重度の火傷を負ったもので、その肉体的苦痛は甚だしいものであったと認められる上、首や胸に広範囲な火傷痕が残り、しかも右手小指が欠損し、両手とも物を掴むこともままならないなど、重篤な後遺症に今なお苦しみ、生活の目処も立っていないのであって、その結果も極めて重大である。さらに本件建物は全焼しており、付近住民に与えた不安感も大きい。Aの遺族やBが被告人に対して厳罰を求めるのは至極当然であるが、これに対して被告人は何の慰藉の措置もとることのできない現状にあり、また本件建物の所有者に対しても全く被害弁償がされていない。してみると、被告人の刑責は極めて重大であるというべきであり、被告人がこれまで真面目に働き、毒物及び劇物取締法違反の罰金前科のほかは前科がないこと、本件犯行を深く反省していること、フィリピン人の妻と子供がいることなど被告人にとって酌むべき事情を考慮しても、被告人に対しては主文掲記の刑に処するのが相当と思料する。

(裁判長裁判官 秋山規雄 裁判官 下山保男 裁判官 福崎伸一郎)

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